CRDS方式水分計の歴史【第2章】

水分計

世界初のCRDS方式水分計はどのように誕生したのか ― Kevin K. Lehmann教授とTiger Optics社の挑戦

ブログシリーズ「CRDS方式水分計の歴史」第2回

第1章では、1988年に誕生したキャビティリングダウン分光法(CRDS)が、大学や研究機関で発展した歴史を紹介しました。

第2章では、その基礎研究がどのように商業化され、「世界初のCRDS方式水分計」が誕生したのかを追います。主役となるのは、プリンストン大学の Kevin K. Lehmann教授 と、分析機器メーカー Tiger Optics社 を創業した Lisa Bergson氏 です。


はじめに

新しい測定技術が大学で生まれても、その多くは論文の中だけで終わります。

実験室では優れていても、

  • 装置が大きい。
  • 調整が難しい。
  • 長時間安定して動かない。
  • 製造現場では使えない。

という理由で製品化されない技術は少なくありません。

CRDSも1990年代前半までは、その一つでした。

しかし1990年代後半、この技術に可能性を見出した人物が現れます。

その人物が Lisa Bergson 氏でした。

彼女の決断が、CRDSを世界初の商業用超微量水分計へと変えていきます。


MEECO社CEOだったLisa Bergson氏

1990年代、超微量水分計市場で知られていた企業の一つが MEECO Inc. でした。

MEECOは五酸化リン電解式水分計で実績のあるメーカーであり、半導体や特殊ガス分野でも製品を供給していました。

当時CEOだった Lisa Bergson 氏は、市場の変化を強く感じていました。

半導体産業では、

  • より低い水分濃度。
  • より長期間安定した測定。
  • 校正頻度の少ない分析計。

が求められるようになっていたからです。

既存技術だけでは、将来の要求には対応できない。

そこでBergson氏は、新しいレーザー分光技術を探し始めます。


プリンストン大学でCW-CRDSに出会う

Lisa Bergson氏が注目したのが、プリンストン大学で研究されていた CW-CRDS(Continuous-Wave Cavity Ring-Down Spectroscopy) でした。

研究を進めていたのは Kevin K. Lehmann教授 です。

第1章で紹介したように、Lehmann教授は大型パルスレーザーを使う初期CRDSを、小型半導体レーザーで動作するCW-CRDSへ発展させていました。

この技術には産業用途に必要な特徴がありました。

  • 小型ダイオードレーザーを利用できる。
  • 長時間安定して測定できる。
  • 高い感度を維持できる。
  • 自動制御が可能。

Bergson氏は、この技術こそ次世代水分計になると考えます。


世界独占ライセンス取得という大きな決断

ここがCRDS水分計史における最大の転換点です。

Lisa Bergson氏は、Kevin K. Lehmann教授が保有するCW-CRDS関連特許について 世界独占ライセンス(Worldwide Exclusive License) を取得します。

つまり、

大学の研究成果を商業利用できる権利を取得したのです。

このライセンス契約を基盤として、新会社 Tiger Optics が設立されました。

Tiger Opticsは、単なる分析機器メーカーではありません。

大学発の基礎研究を製品化するために誕生したベンチャー企業でした。


Tiger Optics社の誕生

Tiger Opticsは1998年、アメリカ・ペンシルベニア州で設立されます。

創業当初から目標は非常に明確でした。

「CW-CRDSを世界初の商業用分析計として実用化すること。」

この時代、多くのレーザー分析計メーカーはTDLAS(Tunable Diode Laser Absorption Spectroscopy)を開発していました。

Tiger Opticsは異なる道を選びます。

光強度ではなくリングダウン時間を測定するCRDS方式に特化したのです。

この判断が、後にTiger Optics最大の特徴になります。


Kevin K. Lehmann教授は単なるライセンサーではなかった

Tiger OpticsとLehmann教授の関係は、一般的な大学と企業のライセンス契約とは少し違います。

企業資料では教授は Technical Partner と紹介されています。

これは「技術顧問」というよりも、共同開発者に近い立場でした。

「Shoulder-to-Shoulder」の共同開発

Tiger Opticsは、自社の技術者をプリンストン大学のLehmann教授の研究室へ送りました。

企業資料では、

「肩を並べて(shoulder-to-shoulder)開発した」

という表現が使われています。

大学研究室では、

  • 光学キャビティ設計。
  • レーザー制御。
  • ミラー配置。
  • 信号処理。
  • ソフトウェア制御。

などが共同で改良されました。

つまり教授は、

  • 特許提供者。
  • 共同研究者。
  • 技術指導者。

という複数の役割を担っていました。

大学で生まれた技術を、そのまま企業へ渡したわけではありません。

実用装置になるまで、一緒に開発を続けていたのです。


世界初の商用CRDS水分計「MTO-100」の誕生

2001年、Tiger Opticsは MTO-100 H₂O(Moisture Trace Analyzer) を発売します。

この装置は、歴史的に非常に重要な製品です。

世界で初めて商業化されたCW-CRDS方式水分計 とされています。

MTOとは何だったのか

MTOは「Moisture Trace Analyzer」の略です。

名称のとおり、超微量水分を測定するための分析計として開発されました。

従来の電解式や露点計とは異なり、

水分分子の吸収線をレーザーで直接測定する光学式分析計でした。

従来方式との違い

MTO-100が注目された理由は、高感度だけではありませんでした。

従来方式と比較すると、

  • 消耗するセンサーが存在しない。
  • 光学方式なので長期ドリフトが少ない。
  • 校正間隔を長くできる。
  • 超高純度ガスを連続監視できる。

という特徴を持っていました。

これは半導体メーカーにとって非常に大きな利点でした。

R&D 100 Award受賞

MTO-100は発売翌年、2002年に R&D 100 Award を受賞します。

R&D 100 Awardは「その年の最も革新的な技術100件」に与えられる賞として知られており、CRDS方式水分計が産業界から高く評価された出来事でもありました。


MTOからLaserTraceへ進化する

MTOシリーズはその後改良されます。

その代表が LaserTrace シリーズでした。

LaserTraceでは、

  • センサー部とコントローラーを分離。
  • リモート設置。
  • 工場配管への組み込み。
  • メンテナンス性向上。

など、産業設備向けの改良が加えられました。

分析装置というより、製造ラインへ組み込める計測器へ進化していきます。

ここでTiger Opticsは半導体・特殊ガス市場で存在感を高めていきました。

なお、多くの人がTiger Opticsと聞いて思い浮かべる HALOシリーズ は、このLaserTraceやMTOの後に登場した小型化モデルです。

HALOは普及を加速させた代表機種ですが、「世界初のCRDS方式水分計」という歴史的位置付けではありません。


なぜ半導体産業はCRDS方式を選んだのか

2000年代初頭、半導体産業では製造プロセスがさらに微細化していきます。

ガス純度への要求も厳しくなりました。

CRDS方式には、その要求に合う特徴がありました。

現場でゼロ点補正ができるという大きな利点

CRDS方式が半導体産業で高く評価された理由は、高感度だけではありません。現場でバックグラウンド(ゼロ点)を確認・補正できるという点も、従来の水分計にはない大きな特徴でした。

CRDS方式では、レーザーの波長(周波数)を水分子の吸収線に合わせて測定します。このとき水分はレーザー光を吸収するため、リングダウン時間が短くなります。

一方で、レーザー波長を水分の吸収線からわずかに外した位置へ移動すると、水分はほとんど光を吸収しません。この状態ではキャビティやミラー、検出器など光学系そのものの損失だけを測定できます。

つまり、

  • 吸収線上(On-line):水分による吸収+光学系の損失
  • 吸収線外(Off-line):光学系の損失のみ

を同じ装置で測定できるため、その差から水分だけの吸収量を求めることができます。

この方法は、光学系のわずかな変化や長期ドリフトの影響を補正できるため、ゼロガスを頻繁に流さなくても測定値の信頼性を維持しやすいという利点があります。半導体工場のように24時間連続で超高純度ガスを監視する設備では、この「オン/オフライン測定によるゼロ点確認」はCRDS方式の実用上大きなメリットとなりました

長期間安定して測定できる

光学式であるため、電極やセンサーが消耗しません。

長期間連続測定でもドリフトが少ないことが評価されました。

超微量領域まで測定できる

ppb以下の水分濃度を直接測定できることは、当時として画期的でした。

ガス配管へ組み込める

MTOやLaserTraceは連続監視を前提に設計されていました。

これにより、

  • 高純度窒素ライン。
  • アルゴン供給設備。
  • 特殊材料ガス設備。

などへの導入が進んでいきます。


CRDS方式水分計という新しい市場が生まれる

Tiger Opticsが作ったのは一台の分析計ではありませんでした。

「CRDS方式水分計」という新しい市場そのものを生み出しました。

その後、

  • 半導体産業。
  • 特殊ガスメーカー。
  • 高純度ガス供給設備。
  • 研究機関。

へ採用が広がります。

さらに2000年代には、CRDS技術を利用するメーカーも増えていきます。

環境計測分野ではPicarro社がCRDSを温室効果ガス分析へ発展させ、CRDSは水分計だけではなく超微量ガス分析技術全体へ広がっていきました。


まとめ

CRDS方式水分計の歴史は、大学の基礎研究が産業技術へ発展した代表例の一つです。

1990年代半ば、Kevin K. Lehmann教授はCW-CRDS技術を確立し、その基本特許を取得しました。

Lisa Bergson氏はその可能性を見抜き、世界独占ライセンスを取得してTiger Optics社を設立します。

そして2001年、Tiger Opticsは MTO-100 Moisture Trace Analyzer を発売し、世界初の商用CW-CRDS方式水分計を誕生させました。

その後、LaserTraceシリーズへ進化し、CRDS方式は半導体産業における超微量水分測定技術として広く普及していきます。

一方、この技術はアメリカだけで発展したわけではありません。

日本でも産業技術総合研究所(産総研)がCRDSを利用した超微量水分計の研究を進め、神栄テクノロジーとの共同開発によって国産CRDS方式水分計が誕生します。

その歴史を、第3章で紹介します。


参考文献

  1. Tiger Optics, Company History and Technology Timeline.
  2. Kevin K. Lehmann, CW-CRDS関連特許(1990年代)。
  3. Tiger Optics, MTO-100 Moisture Trace Analyzer 技術資料。
  4. Tiger Optics, LaserTrace H₂O Analyzer 製品資料。
  5. R&D Magazine, 2002 R&D 100 Awards(MTO-100受賞)。
CRDS方式水分計の歴史【第3章】
日本では産総研がCRDSによる微量水分測定技術を研究し、神栄テクノロジーとの共同開発によって小型CRDS水分計が製品化されました。阿部氏・橋口氏らの研究と国際比較まで解説します。